1)イップスとは?

「イップス」(yips)とは俗称であると考えられる。医学的には職業性ジストニア或いは局所性(フォーカル・ジストニア)といった名称で呼ばれている。これまで、ゴルフや野球で主として使われていた言葉であったが、現在ではあらゆるスポーツで使われ、一般的に浸透している。
だが一方で、「イップス」の言葉だけが、一人歩きしてしまい、あたかも選手本人の性格や精神面が原因であるかのような誤った解釈が浸透してしまい、選手は多くの誤解を受けている。イップスは、脳の構造変化による運動障害である。

※以下文中に「イップス」の文言以外に、「職業性ジストニア(局所性ジストニア・フォーカル・ジストニア)」といった複数名称が出てくるが、俗称か医学的な呼称の違いとして読み進めて頂きたい。

2)イップスは、こころの病ではなかった

長らく正体がつかめなかった「イップス」であったが、最近の学術研究(神経科学)によって、イップスは「こころの病ではなく、脳の構造変化による運動障害であることが明らかになってきた。以下、それらを記した神経科学の研究者(工藤和俊氏 東京大学)の解説文を引用する。

「職業性ジストニアは、筋や腱、あるいは脳における器質的原因が特定できなかったため、かつては神経症の一部に分類されていた。すなわち心理的要因による「こころの病」であると考えられていた。しかしながら、神経症の診断テストを実際に行ってみると、これら職業性ジストニア患者のスコアは健常者と変わらなかった。また、熟練ゴルファーを対象とした研究においても、イップス罹患群と非罹患群との間で神経症スコアに差は見られなかった。これらの知見により現在では、職業性ジストニアやイップスは神経症ではないと結論づけられている」

工藤和俊著 『イップス(Yips)と脳』 体育の科学 vol58 No.2 2008 98P

器質的原因とは、内臓や筋肉の損傷がある原因のことである。神経症とは、主に心理的原因によって生じる機能障害のことを指す。

このように2008年、イップスの学術的な解説文が既に発表されている。今から10年以上も前である。現在の一般的なイップスの認識とは大きく乖離していることが、この文献から見ても分かる。

3)イップスは、脳の構造変化の結果である

工藤氏はその後、イップスの原因について、他の文献にて更なる解説を加えている。

「何度も練習しているはずなのに、いざ運動しようとするとうまくできなくなってしまう。これがイップスと呼ばれる症状です。病名としてはジストニアに相当し、神経症とは関係ないことがわかっています。近年の研究により、イップスは同一動作の過度の繰り返しにより脳の構造変化が起きることで発症しうることが明らかになっています。脳には身体部位に対応する感覚運動領域が規則的に並んでいます。同一パターンの動作を繰り返し行い続けると、感覚運動野の興奮が高まるとともに活動範囲が変化して複数の領域がオーバーラップし、独立していた部分が合わさってしまいます。これにより、体部位再現性が失われて、意図とは異なる運動が現れたりしてしまいます。完璧主義の人はイップスにかかる例が多いのですが、できるようになるまでやらないと気が済まないという行動特性があるためです。また、力が入っている状態でも感覚運動野の興奮性が高まるため、力みやすい人も注意が必要です」                     

工藤和俊著 『スポーツと脳との関係』 Coaching Clinic 201503

 

上記の解説文から、イップスは、過度な同一動作の繰り返しが原因であることが分かる。その結果、感覚運動野が興奮してしまい、神経がオーバーラップする(重なる)ことでイップス(ジストニア)となり、意図とは異なる動きが出現してしまうことがわかる。

図①

 

図①は、大脳皮質の断面図を表している。大脳皮質の表層部分(朱色部分)に、規則的に並んでいる感覚運動野がある。
例えば、図①の「手首」と「ひじ」の位置である。共に隣接しているのが見てわかる(吹き出し部分)。つまり、野球の投球でいうと「手首」と「ひじ」を連動させる運動を過度に行うことで、隣接する神経が重なってしまうということではないだろうか?。
イップス(ジストニア)を体験した方であれば、合点がいくかもしれないが、
投球イップスなると、投球動作の度に不具合が起こる。違和感、不快感が生じる。これまで気にも留めなかった一連の動きが、意に反する動きをしてしまう為、気になって仕方がなくなる。最初は「何かおかしい・・」程度だが、更なる反復練習を積み重ねていくと、次第にその感覚が増していく。いつしか、その動きが定着してしまう。もはや、自分がどうやって投げていたかさえ、わからなくなってしまうことも少なくない。

4)フォーカル・ジストニア(局所性ジストニア)

もう一方ご紹介する。局所性ジストニア(フォーカル・ジストニア)の病態研究で、数多くの実績を上げている、古屋晋一氏である。古屋氏は、元ピアニストでもあり、研究者でもある。2020年2月、国際的権威のある「クライン・フォーゲルバッハ賞」を受賞され話題になった方である。

以下古屋氏の書籍の一部を引用する。

「フォーカル・ジストニア(局所性ジストニア)とは、聞き慣れない名前かもしれません(中略)発症しても痛みやしびれは伴いません。しかしピアノを弾こうとすると、意図せず手指の筋肉に力が入って固まってしまったり、動かそうと思っていない指が動いてしまったりと、思い通りに手指を動かせなくなる病気です。(中略)ゴルフでは、パッティングのときだけ身体が固まって動かなくなる『イップス』という病気がありますが、これもフォーカル・ジストニアとの関連が指摘されています」

「フォーカル・ジストニアを発症すると、手指が動かせなくなるため、速いパッセージを演奏することが困難になります。さらに指を伸ばす動きが難しくなるので、鍵盤から持ち上げるために時間がかかってしまい、音の長さが長くなったり、リズムが不正確になってしまいます。このように、フォーカル・ジストニアとは、思い通りに演奏ができなくなってしまう、とても恐ろしい病気なのです」

      古屋晋一著『ピアニストの脳を科学する』118、119P引用

ピアニストの手指の連動と、野球の投球における肩肘、手首等の連動する神経回路の違いはあるが、起きていることは全く同様の症状に窺える。
傍から見ると、注意して意図通りに動かせば、制御できるのではないか?と、思ってしまうかもしれない。だが、一旦誤って定着した手先の動き(神経回路)をコントロールし直すことは殊の外難しい。熱心に練習すればする程、力みや焦りが増すだけで、かえって思うように動かない。無理をすれば、更に動作のリズムやタイミングが合わなくなる。ギクシャクし、おかしな動きが生まれてくる。

フォーカル・ジストニアは痛みもなく、しびれもない。更に言うと外傷もない。なのに、以前のような自然な動きができないため、周囲からも不思議に見えるのではないだろうか。

5)フォーカル・ジストニア 3つの特徴

更に古屋氏は、フォーカル・ジストニアには以下3つの特徴があると解説している。

①脳からの指令を抑制できなくなる

フォーカル・ジストニアによって脳内に起こる変化として、まず第一に挙げられるのが、脳から筋肉に送られる命令を「待て!」と抑制することができなくなる、ということです。(中略)なお、動作の抑制に関わる脳の部位として、大脳基底核というところが脳の奥深くにあります。フォーカル・ジストニアを患うと、この大脳基底核の一部である被殻の大きさが、大きくなることが知られています。(中略)おそらく、フォーカル・ジストニアを発症し、大脳基底核の抑制機能が低下することで、他の脳部位から被殻へ送られてくる情報を十分に抑制できず、たくさんの信号が送られてしまうために、被殻がいっそう大きくなるのではないかと考えられています」
※被殻とは、運動系機能を司る役割。運動の強化学習に影響する部位。

②手指の地図が書き換えられてしまう

フォーカル・ジストニアによって脳内に起こる2つ目の変化は、身体から脳に送られる情報を、適切に処理できなくなるということです。つまり、皮膚や筋肉の感覚を処理する脳の神経細胞に、好ましくない変化が起こってしまうということです。(中略)ジストニアを患うと、脳の中での部屋同士の区切りが曖昧になってしまい、いわゆる相部屋のような状態になってしまいます。

上述の工藤氏の解説で示した「オーバーラップ」と同じである。図①を合わせて参照いただくと分かりやすい。特定の脳内地図(部位)が書き換えられてしまう。意に反する動きが表れる。同時に変な感覚が起こる。皮膚感覚が薄れる感覚さえある。現に野球の場合、握っているボールの指の感覚が鈍ったり、逆に鋭敏になり過ぎたりしてしまう。

③必要のない筋肉まで働いてしまう

フォーカル・ジストニアを発症すると、ある筋肉を使う際に、その周りにある複数の筋肉も「つられて」一緒に収縮してしまいやすくなるという変化です。(中略)つまりある筋肉を使うと、その筋肉の働きを手助けする筋肉が一緒に働くだけでなくて、協力する必要のない筋肉までもが一緒に収縮しやすい状態になっていたのです。そのため、たとえば親指で打鍵しているときに、自分では意図していないのに小指が一緒に動いてしまうといったことが起こるわけです。(中略)通常、手指の筋肉のうち、ある一つが収縮しているときには、その筋肉に指令を送る神経細胞は活性化し、その周りの筋肉に指令を送る神経細胞は活動しにくい状態になります。つまり、ある筋肉を使っているときには、周りの筋肉が一緒に収縮してしまわないような脳のしくみになっているわけです。

上記①~③は、古屋晋一著 春秋社 『ピアニストの脳を科学する』121~127Pより引用

古屋氏曰く、世界中の音楽家の50人に1人は、フォーカル・ジストニアに悩まされているとのこと。つまり2%の割合である。野球や他の競技においても、もしかすると、同等の割合或いはもっと多い割合で悩んでいる選手がいるのかもしれない。

6)イップス、ジストニア等の呼称の分類

ここで呼称の整理をしておきたい。ご自身もフォーカル・ジストニアを患った経験のある、仁愛大学 人間生活学部の中野研也氏がまとめてある表を参考にしたい。以下図②を御覧頂ければお分かりだが、各領域において呼び名が違うのが分かる。

図②

 

演奏家のジストニアの実践的対処法に関する考察-演奏家の視点から‐」仁愛大学研究紀要 人間生活学部篇 第7号118P 2015の一覧表をもとに作成

7)局所性ジストニア(イップス)の治療法

局所性ジストニアの治療法は、ピアニストの事例ではあるが、以下、古屋氏の文献から2つ引用する。野球、或いは他競技のヒントになれば幸いである。

「1本もしくは、複数の指に副木を当てて動かないようにし、他の固定していない指だけを連続して動かす方法です。つまりジストニアの症状が出ている指と、その隣にある指は一緒には動かず、片方が動いているときには、もう片方は動かない状況になるわけです。(中略)これを1日1~2時間、計8日間おこなった結果、ジストニアを患った音楽家の指の感覚を脳部位で、隣同士の指の部屋の仕切りが徐々にできあがっていき、正常な脳の状態に近づいていくことが報告されています」

「ローゼンクランツ博士とロスウェル教授の考案した、振動器(バイブレータ)を用いたリハビリテーション法です。(中略)フォーカル・ジストニアを患ったピアニストの、症状の出ている手指の筋肉およびその周辺の筋肉に対して、2秒間振動を加え、2秒間休むという過程を、15分間繰り返しおこないます。このとき、バイブレータの振動の速さが、時折、変わるようにします。(中略)この訓練の結果、約3割もリズムの正確性が向上しました。また、より正確なリズムで弾けるようになった人ほど、「不必要な筋肉が、つられて収縮しやすい状態にあった」脳の回路が、つられて収縮しにくい正常な状態にもどっていたのです。さらに、このような脳の変化は、ジストニアを患っていないピアニストや、音楽家ではない人には見られませんでした。したがって、振動器を使ったこのリハビリは、「変化しすぎた脳の回路」を元に戻し、適切な筋肉だけが働くようにする効果があると思われます」

古屋晋一著 春秋社 『ピアニストの脳を科学する』134~136Pより引用

このように、医科学の目覚ましい発達により、フォーカル・ジストニアの治療は、数多くの手法が試され、日々アップデートしている。ただ、完治までは至っていないため、更なる治療開発を期待したい。

また、東京女子医大の脳神経外科では、唯一行っている開頭手術もある。メディアでも時折紹介されている(音楽演奏家のフォーカル・ジストニアの症例数が多い様子)

一時的ではあるが、ボツリヌス治療(安全性も確立されている)の筋注射もある。筋肉の収縮において麻痺を起こさずに筋肉の過緊張を和らげるはたらきがある。

8)イップスの誤解(イップスとチョーキング)

さて、「チョーキング」という言葉をご存知だろうか?チョーキングとは、プレッシャーを受けたことで、体が固まってしまい。思うように動けない、あれこれ考え過ぎて上手く動けない。そんな状態のことである。これらを心理学では「チョーキング」と呼ぶ。一般的には、「あがり」といった方が分かりやすいかもしれない。

「チョーキング」。もしかすると、これまでゴルフや野球等の領域で、一般的に呼ばれていた「イップス」とは、「チョーキング」のことを指していたのではないだろうか?。以下「チョーキング」について引用する。

「チョークはふだん無意識のうちにやっている行動について、考えすぎた場合に起こる。『分析による麻痺』と呼ばれるものだ。(中略)プレッシャーのもとでチョークするのは、ある状況にストレスを感じて、その反応としてしくじることだ」

「なぜ本番でしくじるのか プレッシャーに強い人と弱い人」-シアンバイロック著 2011年10月30日初版12P引用

「チョーキング(チョークする(choking))」とは、息が詰まる、窒息するという意味である。プレッシャーを感じることで起こる。「あがり」と同様の意味である。一時的に体が上手く動かなくなる感覚のことである。練習中は問題ないが、本番(試合)になると、急になってしまう“あれ”である。恐らく誰もが1度や2度の経験はあるのではないだろうか?別にスポーツに限ったことでもない。失敗してはならない、いいところを見せなければならない、勝たなければならない、といった、プレッシャーによって起こる心理的反応である。

また、「分析による麻痺」とは、いわゆる“「考えすぎ”のことである。何らかのプレッシャーを受け、失敗を怖がるあまり、意識的に「肩を・・、肘を・・、手首をもっと利かせて・・」といった手順を踏み、チェックしながら動作してしまう行為である。チョーキングは、かえって運動の自動化、正確さを損い、パフォーマンスを一気に下げてしまうことである。

チョーキングとイップス、見た目の症状からすると、一見同じものであるかのように映る。しかし、実体験、そして受講者の声から推測すると、どうもこの2つが同じものには見えないのである。以下図③のように整理を行った。

図③

①前提が異なる
イップスではない選手(普通の選手)が、プレッシャーを感じていない時は、特に問題があるわけではない。一方、局所性ジストニア(イップス)の選手は、既に投げづらい状態にある。「分析による麻痺」も頻繁に起こる。なぜなら、そもそも意図通りに動いていない為、自身の動きを詳細に分析してしまうのである。

影響度合いが異なる
イップスではない選手(普通の選手)に、チョーキングが起きると、一時的に普段のパフォーマンスが出せなくなる。一方、局所性ジストニア(イップス)の選手は、イップスではない選手(普通の選手)とは比較にならない程、動きが乱れてしまう。制御不能な状態に陥る。

 元に戻る状態が異なる
イップスではない選手(普通の選手)は、多少余韻は残るが、本来の状態に次第に戻る。だが、局所性ジストニア(イップス)の選手は、自分本来の状態ではなく、イップスが鳴りを潜めた状態に戻るだけである。

イップスではない選手(普通の選手)のチョーキング(あがり)は、プレッシャーによって起こる一時的なパフォーマンスの低下であり、対処法はいくつか存在すると考える。勿論、重心制御技法でも可能であると考えるが、他にもいくつかあると思われる。
例えば、プレッシャーを軽減するために言語化することである。誰かに不安を聴いてもらったりすること、状況を共有してもらうことである。
また、自身で不安に思うことを書き出すことである。ポジティブな言葉を自身にかけていく方法もある。
注意している意識を変えることも有効である。投球動作中に、見る箇所を変えることである。個人差はあるが、何等かの効果は期待できる。

一方、局所性ジストニア(イップス)は、過度な同一動作によって起こる運動障害である。既に意に反する神経回路が出来上がっているため、精神的なことが課題ではない。運動機能の修復、改善が課題である。この点が誤って認識されているように思えてならない。局所性ジストニア(イップス)の場合は、感覚運動訓練や機能的な運動動作等によって、脳内地図を変えて行く事が必要がある。

9)チョーキングか?イップスか?

単なるチョーキングか、局所性ジストニア(イップス)を抱えているか?これまでの実践知による簡単に見分け方を以下に示す。参考にしてもらいたい。

<見分け方>

以下①、②どちらかに該当すれば、イップスの可能性がある。該当しなければチョーキングの可能性が高いと考えられる。

①プレッシャーがない状態でも、不随意運動がある
自他ともに判別がつく。不随意運動とは、具体例としては、以下のような場合である。
・リリース前に、手が頭に当たってしまう

・リリース直前で手首が屈曲する

・テイクバックで、肘が伸びたまま、或いは肘が必要以上に屈曲してしまう

・テイクバックで、必要以上に背中側に腕が回ってしまう

・腕の動きが“カクカク”して、ロボットみたいな動きになる

フォームが崩れている自覚がある
動きがバラバラな感覚がある。勿論、常態化すると、それが当たり前になり、自覚がなくなる。他人から指摘を受けて初めて気づくことも少なくない。具体例としては、以下のような場合である。

・以前と違い、関節が上手く連動しなくなった。その状態が長く続いている

・一連の動作のタイミングが合わない

・どうやって投げていいか分からない

・普通のキャッチボールでも動作に違和感、不快感がある

・分析による麻痺

10)チョーキングからイップスへ

チョーキング(あがり)に限ったことではないが、チョーキング(あがり)で、押さえておかなければならないことが1点ある。それは、チョーキングが、イップスの“きっかけ”になり得ることである(図④)。チョーキング状態の選手は、力み、焦り、迷い、混乱状態にある。そのような状態で、投げ込みやスローイング練習を更に行ってしまうと、イップスへと発展してしまう可能性が高いと考える。

図④

イップスにはさまざまなきっかけがある。精神的な面が関係している。と、よく耳にする。それは、恐らくこのパターンによって、イップスへと発展したケースではないだろうか?チョーキング状態のまま、過度な投げ込みや、過度なスローイング練習を施してしまった結果、いつしか、投球(送球)動作に不具合が生じ、イップスへと発展する危険性を感じている。

図⑤

チョーキングで止めておけば、イップスへと発展することも極めて少ないと考える。つまりミスやエラーをしてしまっても、その後の投げ込みやスローイング練習を行わない。ということである。このことを選手、指導者が知識として知っておくだけでも、イップスを予防できると私は確信している。 

「イップスの治し方」