イップス(yips)

イップスとは、同じ動作を過剰に繰り返すことで起こり得る運動障害といわれています。医学的には局所性ジストニア(職業性ジストニア)といわれています。
イップスを野球で例えると、特に肩や肘、指先など関節の一部分に意識を向けた動作(修正含む)を必要以上に繰り返すことで発症するようです。それまで自動化されていた動きが損なわれ、本来の動作が再現出来なくなってしまう症状を指します。またイップスにかかると、二次的にネガティブな心理的症状(精神的症状)を自覚するようになります。それが不安や苛立ち、焦り、葛藤、自己嫌悪などです。イップスにおけるネガティブな心理的症状(精神的症状)のその正体は、主に以下のような点です。

<例:野球>
・出来ていたことが出来なくなった「ギャップ」による不安や焦り
・一連の動作を思うように制御できないため、どこでボールがリリースされるかわからない「動作」による不安
・周囲から「心の問題ではないか」、「メンタルが弱いのではないか」と見られている不安
・以前のフォームを「再現できない」自身への苛立ちや葛藤、自己嫌悪

なお、一時的な緊張や不安、プレッシャー等により筋硬直が起き、ぎこちない動きが起きてしまう症状のことをチョーキングといわれています。勿論、イップスの選手にもチョーキングは起きています。ただ、通常のチョーキングとは比較にならないほど動作の操作性が低下しています。
イップスはこれまでチョーキングと混同されたり、解釈違いをされてきたようです。理由は、一見するとチョーキングの症状と非常によく似ているためだと考えられます。


イップスは、心の病ではなかった

脳の構造変化による運動障害であることが既に解明されています

本ページは、イップスを研究なさっている学術関係者や医師の治験等に基づいた情報をもとに、当研究所の知見を合わせて分かりやすく提供しています。選手は勿論、指導者、競技関係者の方々がイップスについて正しい認識を持っていただき、真摯に取り組む選手へ適切な見識が持てるようにすることが目的です。なお、以下文中に「イップス(俗称)」の文言以外に「職業性ジストニア、局所性ジストニア、フォーカル・ジストニア(医学的呼称)」といった複数の名称が出てきますが、俗称と医学的な呼称の違いとして読み進めてください。


長らく正体がつかめなかった「イップス」でしたが、最近の学術研究(神経科学)によって、イップスは脳の構造変化による運動障害であることが解明されてきました。以下、それらを記した神経科学、スポーツ心理学の研究者である工藤和俊氏(東京大学)の解説をまずは引用しご紹介します。

「職業性ジストニアは、筋や腱、あるいは脳における器質的原因が特定できなかったため、かつては神経症の一部に分類されていた。すなわち心理的要因による「こころの病」であると考えられていた。しかしながら、神経症の診断テストを実際に行ってみると、これら職業性ジストニア患者のスコアは健常者と変わらなかった。また、熟練ゴルファーを対象とした研究においても、イップス罹患群と非罹患群との間で神経症スコアに差は見られなかった。これらの知見により現在では、職業性ジストニアやイップスは神経症ではないと結論づけられている」

工藤和俊. “イップス (Yips) と脳 (特集 脳の前頭機能と運動).” 体育の科学 58.2 (2008): 98.

※器質的原因とは、内臓や筋肉の損傷がある原因のことです。神経症とは、主に心理的原因によって生じる機能障害のことを指します。

「職業性ジストニア」や「イップス」は心の病ではなかった図

このように2008年、イップスの学術的な解説文が既に発表されています。今から10数年以上も前のことです。現在の一般的なイップスの認識とは大きく乖離していることが、この文献から見ても分かります。

イップスは、脳の構造変化の結果である

脳の活動範囲が変化し、複数領域がオーバーラップしてしまう

工藤氏はその後、イップスの原因について他の文献にて更なる解説を加えています。

「何度も練習しているはずなのに、いざ運動しようとするとうまくできなくなってしまう。これがイップスと呼ばれる症状です。病名としてはジストニアに相当し、神経症とは関係ないことがわかっています。近年の研究により、イップスは同一動作の過度の繰り返しにより脳の構造変化が起きることで発症しうることが明らかになっています。脳には身体部位に対応する感覚運動領域が規則的に並んでいます。同一パターンの動作を繰り返し行い続けると、感覚運動野の興奮が高まるとともに活動範囲が変化して複数の領域がオーバーラップし、独立していた部分が合わさってしまいます。これにより、体部位再現性が失われて、意図とは異なる運動が現れたりしてしまいます。完璧主義の人はイップスにかかる例が多いのですが、できるようになるまでやらないと気が済まないという行動特性があるためです。また、力が入っている状態でも感覚運動野の興奮性が高まるため、力みやすい人も注意が必要です」                  

工藤和俊著 『スポーツと脳との関係』 Coaching Clinic 201503
脳内で起こる神経伝達のオーバーラップイメージ図

上記解説文から、イップスは、過度な同一動作の繰り返しが原因であることが分かります。その結果、感覚運動野が興奮してしまい神経がオーバーラップする(重なる)ことでイップス(局所性ジストニア)となり、意図とは異なる動きが出現してしまうことがわかります。

工藤氏の解説を以下のイラストで補足します。以下図①は、大脳皮質の断面図を表しています。大脳皮質の表層部分(朱色部分)には、規則的に並んでいる感覚運動野があります。
                                <図①>

大脳皮質の断面図

例えば「手首」と「ひじ」、そして「肩」の位置をご覧ください。共に隣接しているのが見て分かります(吹き出し部分)。上述の工藤氏の解説を野球の投球で例えて説明すると「手首」と「ひじ」、「肩」の連動、つまりテイクバック~リリースの間の一連の動作を想像することが可能です。イップス(局所性ジストニア)を体験した方であれば、合点がいくのではないでしょうか。


指導経験値からの知見ですが、野球における代表的なイップス症状例を以下挙げていきます。演奏家における指先の不具合とは異なり、投球動作は肩肘や手首の一連の動きがほとんどです。傍目に見ると選手の個性(クセ)のように解釈されがちです。そのため、それがイップス症状であるということの認識が一見分かりづらいかもしれません。また、微細な不随意運動の場合は、選手本人もそうですが、周囲も気づきにくいものです。


<野球におけるイップスの症状例>
・必要以上に手首が伸びたままになる。或いは必要以上に肘が曲がったまま投げる

・必要以上にテイクバックが大きくなる(背中方向に入る)

・テイクバックの途中、肘や手首、首等が屈曲してしまう動作が入る

・テイクバックで、利き腕(指)が頭部に当たるようになる

・テイクバックとステップ足の動作のタイミングが合わなくなる

・グラブ側と、利き腕の一連の動きのタイミングが合わなくなる

・ステップ足が地面に着地した瞬間、ステップ足の膝等が「カクン」と屈曲する

※このような意に沿わない動きによって、結果的にリリースで指先に力が加わらない。或いは余計に力が入るようになってしまいます。


フォーカル・ジストニア(局所性ジストニア)

演奏者が思い通りに手指を動かせなくなってしまう

もう一方ご紹介します。局所性ジストニア(フォーカル・ジストニア)の病態研究で、数多くの実績を上げている、古屋晋一氏です。古屋氏は元ピアニストでもあり研究者でもあります。以下古屋氏の書籍の一部を引用します。

「フォーカル・ジストニア(局所性ジストニア)とは、聞き慣れない名前かもしれません(中略)発症しても痛みやしびれは伴いません。しかしピアノを弾こうとすると、意図せず手指の筋肉に力が入って固まってしまったり、動かそうと思っていない指が動いてしまったりと、思い通りに手指を動かせなくなる病気です。(中略)ゴルフでは、パッティングのときだけ身体が固まって動かなくなる『イップス』という病気がありますが、これもフォーカル・ジストニアとの関連が指摘されています」
「フォーカル・ジストニアを発症すると、手指が動かせなくなるため、速いパッセージを演奏することが困難になります。さらに指を伸ばす動きが難しくなるので、鍵盤から持ち上げるために時間がかかってしまい、音の長さが長くなったり、リズムが不正確になってしまいます。このように、フォーカル・ジストニアとは、思い通りに演奏ができなくなってしまう、とても恐ろしい病気なのです」


古屋晋一著『ピアニストの脳を科学する』118、119P引用
痛みはない、痺れもない、だが以前の動きができない苦悩図

ピアニストの手指の連動と、野球の投球における肩肘、手首等の連動する神経回路の違いはありますが、奏者と選手に起きていることは同様の症状ではないでしょうか。

フォーカル・ジストニア 3つの特徴

更に古屋氏は、フォーカル・ジストニアには以下3つの特徴があると解説しています。

脳からの指令を抑制できなくなる

フォーカル・ジストニアによって脳内に起こる変化として、まず第一に挙げられるのが、脳から筋肉に送られる命令を「待て!」と抑制することができなくなる、ということです。(中略)なお、動作の抑制に関わる脳の部位として、大脳基底核というところが脳の奥深くにあります。フォーカル・ジストニアを患うと、この大脳基底核の一部である被殻の大きさが、大きくなることが知られています。(中略)おそらく、フォーカル・ジストニアを発症し、大脳基底核の抑制機能が低下することで、他の脳部位から被殻へ送られてくる情報を十分に抑制できず、たくさんの信号が送られてしまうために、被殻がいっそう大きくなるのではないかと考えられています」
※被殻とは、運動系機能を司る役割。運動の強化学習に影響する部位。


古屋晋一著 春秋社 『ピアニストの脳を科学する』121~127Pより引用

②手指の地図が書き換えられてしまう

フォーカル・ジストニアによって脳内に起こる2つ目の変化は、身体から脳に送られる情報を、適切に処理できなくなるということです。つまり、皮膚や筋肉の感覚を処理する脳の神経細胞に、好ましくない変化が起こってしまうということです。(中略)ジストニアを患うと、脳の中での部屋同士の区切りが曖昧になってしまい、いわゆる相部屋のような状態になってしまいます。上述図①と合わせて御覧いただくと分かりやすいかと思います。ある部分の脳内地図(部位)が書き換えられてしまい、意に反する動きが表れるということかと考えられます。

古屋晋一著 春秋社 『ピアニストの脳を科学する』121~127Pより引用

③必要のない筋肉まで働いてしまう

フォーカル・ジストニアを発症すると、ある筋肉を使う際に、その周りにある複数の筋肉も「つられて」一緒に収縮してしまいやすくなるという変化です。(中略)つまりある筋肉を使うと、その筋肉の働きを手助けする筋肉が一緒に働くだけでなくて、協力する必要のない筋肉までもが一緒に収縮しやすい状態になっていたのです。そのため、たとえば親指で打鍵しているときに、自分では意図していないのに小指が一緒に動いてしまうといったことが起こるわけです。(中略)通常、手指の筋肉のうち、ある一つが収縮しているときには、その筋肉に指令を送る神経細胞は活性化し、その周りの筋肉に指令を送る神経細胞は活動しにくい状態になります。つまり、ある筋肉を使っているときには、周りの筋肉が一緒に収縮してしまわないような 脳のしくみになっているわけです。

古屋晋一著 春秋社 『ピアニストの脳を科学する』121~127Pより引用

古屋氏曰く、世界中の音楽家の50人に1人は、フォーカル・ジストニアに悩まされているとのことです。つまり2%の割合です。野球や他の競技においても、もしかすると、同等の割合或いはもっと多い割合で悩んでいる選手がいるのかもしれません。

イップス、ジストニア等の呼称の分類

業種により症状の呼び名が違うことに注意

ここで呼称の整理をしておきます。ご自身もフォーカル・ジストニアを患った経験のある、仁愛大学 人間生活学部の中野研也氏がまとめてある表を参考にします。以下図②の一覧表を御覧頂ければお分かりですが、各領域において呼び名が違うのが分かるかと思います。

                                <図②>

職業呼称主な症状
スポーツ選手イップス(yips)痙攣や硬直など、医師とは別の動きを起こす。強い集中力や繊細さが求められる場面において特に多く現れる。
【野球選手】
投手・内野手に多く、暴投や悪送球などを起こす。
【プロゴルファー】
パッティング時が特に多く、正確なショットが打てなくなる。
【弓道・アーチェリー】
弓を引いたらすぐに離してしまう。或いは弓を引いたママ弦を離せなくなる。
作家・ライター書痙文字を書くことを職業とする人が、執筆する時にだけ手が震え、正常に文字を書くことができなくなる。
演奏家演奏家のジストニア【鍵盤楽器・弦楽器・打楽器奏者】
手指や腕が意思とは違った動きをする。(曲がり過ぎ・伸び過ぎ・硬直など)
【管楽器奏者】
アンプシュア(楽器を吹く時の口の形およびその機能)のコントロールが効かなくなる。
【歌手】
特定の音域またはフレーズにおいてのみ、喉やその周辺が痙攣または硬直し、思い通りの声が出せなくなる。

中野研也. “演奏家のジストニアの実践的対処法に関する考察− 演奏者の視点から−.” (2016).118P.一覧表をもとに作成


➡「イップスの原因」